礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2022.9.11 主日礼拝 主イエスの許に帰ろう②「癒されて生きる」友納靖史牧師【マルコによる福音書 2章1~7節】(新共同訳 新約P.63)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 57章18~19節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生429番「主よ今われらの罪をゆるし(B)」1.2.4節
聖書 マルコによる福音書 2章1~7節
特別賛美 常盤台バプテスト教会70周年記念讃美歌9番「ときわ」
宣教 主イエスの許に帰ろう②「癒されて生きる」友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生550番「ひとたびは死にし身も」1.2.3節
献金感謝 司式者
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 主イエス最初の宣教活動を福音記者マタイは「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた(4:24)」と要約しました。それは既にマルコが詳しく記し、人々に伝わっていたからです。マルコはここで4つの病気治癒と主イエスの関りを詳細に記します。第一(1:21-28)に汚れた霊に取りつかれた男。この時、主イエスは「神の聖者」だと真実を知る悪霊に対し「黙れ。この人から出ていけ」と叱りつけ、汚れた霊はその男にけいれんを起こさせ、大声を上げて出ていき、癒されました。第二(1:29-34)に、シモン(ペトロ)の妻の母が熱を出して寝ていた時、主は“そばに行き、手を取って起こされると、熱は去り”癒されます。すると彼女は、主イエスの一行を“もてなした(ギ語:<執事として>仕えた)”のです。第三(1:40-45)に、重い皮膚病を患い苦しむ人が「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と主に願いました。すると主は“深く憐れんで(ギ語:クプランクニゾマイ)”手を差し伸べ、その人に触れ「よろしい<わたしも同じ思いだ>。清くなれ」と言われ”、たちまち病は去り清くされたのです。第四(2:1-12)は、体の麻痺した人が、自分の力では動けず、男性四人がイエスの許に運んで、屋根を剥がしてまでもイエスに会えるようにと、彼をつり下ろす出来事です。すると主は“その人たちの信仰を見て”この病の人に「子よ、あなたの罪は赦されている」と宣言され、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語りかけました。すると彼は“すぐに”床を担いで人々の前で起きて歩いていく信仰が与えられたのです。
次に記されるのは、取税人レビ(マタイ)を見かけられた主イエスが、「わたしに従いなさい」と語りかけると、“立ち上がって主に従った”召命物語です。その後、同じ立場の多くの徴税人や罪人たちが主と出会えるように、彼は自分の家へ招き共に食事の席に着きました。するとそれを見たファリサイ派や律法学者たちは、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちへ問います。そこで主は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(2:17)」と、それまでの宗教的価値観をひっくり返す返答をされました。この教えこそ、当時疎外され見下されていた人々にとって、救いと癒し、生きる希望と力の源となっていったのです。
マルコによる一連の治癒物語の締めは、後に福音記者マタイとして用いられるレビが主イエスの弟子とされる出来事までを含みます。なぜなら、病を癒されたペトロの姑が主イエスに仕える姿をはじめ、主が行われた「癒し」とは、身体的回復に留まらず、魂の救い、つまり主なる神によって託された使命を喜び担う人生を生きることが真の癒しと目的とされるからです。更に当時は律法を忠実に守る人が「義人」であり神に愛され祝されると信じられていました。しかし主イエスは、律法を全うできず罪人として蔑まれ、罪がもたらす報いとして病いを得たと勘違いし苦しむ人々と出会い、癒し、救い出される福音の喜びをマルコは伝えたのです。
これからも、恐れず主に癒しと助けを祈り求めましょう。しかし何よりも、主イエスに救われ、使命を与えられた私たちは、永遠の命にある神の恵みの計画の中で、喜び仕えて生きる者とされていることを忘れず、感謝と賛美を主に奉げて歩み続けましょう。